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遡ること飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)の頃。
日本に伝来した「仏教」は、思想や文化と共に様々な「品・形」として我が国に伝わりました。

特に、印度、古代中国、朝鮮半島の国々から入ってきた「織物」は、今でも「仏教芸術」としてのカテゴリーを持つ価値の高いものです。この織物(生地)に使用されていたのが、「金銀糸」です。この流れで日本に入ってきた、と推察されています。

はじめは海外の金銀糸を使っていた我が国も、持ち前の日本人スピリットで、その製造を研究し、江戸時代の頃には、自分達で金銀糸を創るところまで技術を高めたそうです。

残念ながら、厳密な時期は不明ですが、奢侈品禁止令の中に金銀糸の使用が制約されていたこと等によって、この時代には確実にあった、という事になりました。

金銀糸の使用を制約しても、人間の心は抑えられません。キラキラの魅力は昔も今も同じです。ここから、「裏勝(うらまさり)」の文化がうまれたそうです。
表地は制約を守り質素な着物柄なのですが、裏地には絢爛豪華な金銀糸をたくさんあしらった着物で、「粋」なお洒落を楽しんでいたのです。


明治初期になると、開国と共に着物文化の需要も限られて、金銀糸のニーズは少なくなり、生産力も衰えてしまいます。
封建的な政治経済から資本制に移行する我が国の歴史は、金銀糸にとっては、
「特権階級」に限られたものから「大衆的」に移行する事を意味しました。
つまり、セレブ愛用のグッズから、一般的なグッズになったわけです。ここで、「価値」と「生産量」の立場が逆転します。

大正10年頃より丸撚りの機械化が進められ生産量とスピードが格段にアップしました。

昭和30年代に入り、重工大産業が発達する中、ポリエステルフィルムを使った製品が造られる様になり、量産時代の到来です。

その後、「着物文化」の衰退と「ラメ糸としての洋服導入」の発展により、今でもファッションアイテムとして愛されております。

平成の現代では、着物が「希少な日本の民族衣装」となり、減少した分、本当の価値を見直したムーブメントが起こっております。その中で、金銀糸も量産時代の終焉を見せ、「肌触り重視」「抗菌・脱臭・防臭」「ストレッチ性のあるラメ糸」といった機能性のものが増えてきました。

また、JAPANブランドに採択された2010年には、古来の製造方法でつくられた「本金糸」(ほんきんし=金塊を薄く延ばした金箔と和紙を漆で貼り絹糸と撚糸したもの)のニーズも高まってきております。